凛として。。。

木曜日だと思って仕事に向かったその日が、ふと金曜日だとわかった日。
そんな日は何とも言えない”ヌケ”感と、嬉しさが同時に来る。

ロモジャパンにリース。

ロモの持つ、愛嬌や、ある種の"おっちょこちょいな"どうしようもない部分を僕らはカバーする様に色々な手法を用いて、撮る。

「それは、便利さだけを言えばデジカメだし、写りが良いって言えば、ライカとかリコーのGR1とかあるけどね。。。それとはどうも違うところでいたいんですよね。」
代表の浪上さんが言う。

「僕もその性能や写りには決して満足してないんだけど。。。ロモ君の気分なのか、出来上がりの写真に想像も出来ない像が写ることがあって。。。それがなんだか宝物をみつけたような気分を感じさせるんですよね。あとはロモってだけで世界と繋がれる、『あ〜あのダメカメラ、君も好きなんだ』。て感じで。世話のかかる子供程かわいいって言うもんね。」

まあ、そんな風に思っている人たちが、ロモカメラを通じて出逢う、コミュニケーションツールとしてあるところがこのカメラのすごいところ。

それは僕が尊敬する一人E&Yの中牟田さんがおっしゃっていたことでもある。(我輩 齢19歳の頃)

金曜の夜ということで、いたるところで行われる”レセプションパーティー”という名の飲み会に出席せず、一人ベットに転がってみた。

色々な物が見えた。

ジョンボルビンという精神物理学者が実証している安全基地理論についての考察。
子供における世界は完全なる未知なはず。なにものも新鮮で、なにものも答えがなくて、際限なく広がる興味心と、好奇心。

子供はどうして躊躇せずに、そのような危険を多くはらんだ未知なるものへ挑戦ができるのか。

それは、子供には親という絶対的な安全基地があるからである。

過保護になる必要はまったくないのだけど、ただ見てくれている。
困った時、うれしい時にちらっと親の顔を見る。

その時に親は必ず目を合わしてニコっと笑顔をくれる。

守られている。

そう感じることが出来ると、そこは子供にとって”安全基地”となる。

ただそれだけのシンプルなことなのに、それが現在の親子関係に於いては疎遠になっているのは、とても悲しい現象である。

子供が安全基地を失った時にどうなるか?

この領域にまで、ジョンボルビンは踏み込んでいるが故に、”安全基地理論”が効用をもつ。

子供は、安全基地を失うと、不安が蓄積して自分の中にその不安を溜め込んでしまう。

それで、例えばテレビゲームなどに熱中する。

親も親で、自分のことが大事だから、近所のおばさんとの世間話やら夫の心配やら。

そうすると、子供は自分の殻に閉じこもり、安全基地を失い、色々な事に挑戦出来なくなる。

その様な精神状態の中で、生まれた子供が昨今報道されているような”怪奇事件”を起こすのには、こうした因果関係があるのでは無いか。

これは現代の大人こそが自分の中に、”Attachement”(愛着)を失っているからに大きく起因する。

子供は”安全基地”を与えてくれる大人に愛着を感じる。

人生に於ける、”不確実性”(何がおきるか分からない)を楽しめるという人は、必ず”愛するもの”を持っている。

そういうことだ。

明けて、19日の「BLAQUE & P.P.」撮影の為、小金井公園にロケハン。
電車をあまり利用しない僕は、迷う、まよう。

行っては、戻り、最後のバスではぐるんぐるん、小金井を回ってしまった。

1時間程遅れて着いた公園には、のどかな景色が広がっていた。

これはいい作品が撮れそうだ。

その後、誘われていた落語を見に浅草へ向かう。
エリグラと同僚。みさきちゃん、初めてお会いするリステアのwebデザイナーしんちゃん、よっちゃんなどと、浅草を散策後ビールを片手に浅草演芸ホールへ向かう。

林家一門の8月中席が、本日の演目。
ドラマなどで、にわかに盛り上がっているらしい落語人気の為か、若い人の姿もちらほろ。

僕が落語に興味をもったのは、再現芸術としての古典落語の形式性に、今求めている言葉の可能性を感じたからだ。

必須要素はこの5つ

まず
■『言葉』。

それに続き重要な
■『仕草』ー最小限のものに限られ、基本的に立上って歩くことはない。

■仕草のための『小道具』
ー扇子、手ぬぐい、上方落語における見台と拍子木、張扇の五種に限定される。

■そのほか特殊な演目における付随的要素
上方落語・音曲噺のはめもの、芝居噺の書割・ツケなど。

■口演には直接関係ないが、落語の演ぜられる場を構成する要素
出囃子、噺家の衣装(着物)、座布団、高座、めくりなど。

基本的に落語は”言葉と仕草”の二つの芸術であるとみなすと、僕がやろうとしているコミュニケーションアートなどにアダプト出来る要素は大いにあると踏んだのだった。

しかも、厳密に話の中に、本筋に入る前に演目に関わりのある小話を語る、”枕”。本来の筋にはない、演者によって挿入されたおかしみのある”くすぐり”などの要素が存在し、最後に

○にわか落ち ○ひょうし落ち
○逆さ落ち ○考え落ち
○まわり落ち ○見立て落ち
○まぬけ落ち ○とたん落ち
○ぶっつけ落ち ○しぐさ落ち

などの”落ち(さげ)”がある。

このように落語は高度に論理化された、芸術なのであった。

今回の中席、締めは夜の部主任、9代目 林家正蔵 (こぶ平である)。

演目は”活字離れの進む子供達に本を読ませよう”という内容。

しかし残念ながら、その演目は、まるで”糞”であった。

世の中が”どんどん説明を求める方向”、”簡単な方向に向かっている”のは知っている。

演目の内容は、軽い下ネタだった。

昔から、俗っぽい話は受けるとは言うが。。。

たまたまだろうが、正蔵が選んだ演目は、もっとも簡単に同意を得易い、下ネタだったのだ。

しかし、内容の善し悪しはとるにたらないが、噺家ー”話すことで人のこころを動かすプロ”。と少なくても思って馳せ参じた僕にとっては、一流のプロフェッショナルたちが、その取るに足らないレベルで ”流す(ながす)” 感覚。 ”ながす” 芸当 には本当に反吐が出そうになった。

まるで優勝を決めたチームの消化試合の様だった。

しかし、一度では何とも判断出来ないので、ーこれはしばらく浅草通いが濃厚になってきたな−などと思案しながら、延期した隅田川の花火を33階の絶景から眺める為にハラチャンの家に向かった。

残念ながら花火は終わっていたが、凛とした 彼女の視線の中に"大輪の花火"が上がっている。

彼女は決して物事を”流さない”。

その後、はらちゃんと朝まで話してしまった。

とてもrichな時間が流れ、本当に温かい気持ちが僕の心にも宿った。



隅田川を想い、目黒川へ戻る。


そしてまた一人、ベットの上に転がってみた。

今度はよりはっきりと、色々な考察うかぶ。

今は僕、何か愛するものを探しているのだろう。

愛する何か、愛着を持てる何かを必死で探しているのだろう。

さあ、話が盛り上がって参りました。
が、この続きは、次の演目にて。。。

ちゃんちゃん。

(こういう流れも、落語の落ちの一つである。)
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by fumiya0501 | 2006-08-16 08:12 | Journal

Freelance fashion editor based in Paris.