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奇跡

キルケゴールの"死に至る病"とは絶望ということで、ドストエフスキーも絶望した人のことを書いているのだから、二人とも同じ様なことを考えていたのだろうなあと感じたのです。と、哲学者の木田元は記しています。
そこから氏はハイデガーの"存在と時間"に、存在構造を見いだします。

絶対な"存在"の不確定さに立ち向かった時に人は絶望に陥るのではないでしょうかという。

そんなことをふにゃふにゃと考えながら、映画監督、是枝監督の講演を聞きにいった。

ワンダフルライフ、誰も知らない、あるいてもあるいても、奇跡。。。

氏の映画の魅力は、孤独の中に存在する、まばゆい奇跡の集合体、光の結晶。
驚いたのは、最新作"奇跡"の脚本が、基本的には"存在"しないに等しいという事。

元々は、博多と、熊本と離ればなれに住んでいた男女が、初めの九州新幹線がすれ違う瞬間に立ち会い、奇跡が起こる。
そういうシナリオだったそうだが、弟役の役者"旺志郎くん"に出会った瞬間にこの脚本は全く変わってしまう。

監督は、撮影に際し役者にストーリーを話さない。
現場現場で子供達と話し、遊びながらストーリーを組み立てて行く。状況を説明することなく、カメラを回す。
役者のアドリブに任す、観察する、追いかける、捕まえる、そして奇跡を待つ。
ワリコフスキや、ピータブルックの演劇の手法な役者のアドリブに観察し、セレンディップな瞬間を待つ。

監督にとって映画を作る動機は非常に個人的な契機にある。
ある時は亡くなった母親に、ある時は、自分の娘にむけて。。。至極全うに自分サイズで映画を作る。

"誰も知らない"では、絶望の中に身を潜める子供達のその孤独を掘り起こした。
激しい孤立と、自分たちでこしらえた荒削りの正当性を実践することで、生きている実感を炙り出す。

"奇跡"では、戻る事の無い家族の絆、生き返る事の無い愛犬、といった具体的な絶望を全面に表示しながら、雑草の中に咲くコスモスの如く、凛々と自由に無造作に、そして寄り添って生きる事で、人生を肯定し底抜けに朗らかに生きる子供達の姿を描く。

小津の映画ともよく引け合いに出される氏の作品は、どちらかというと、トリュフォーの様な骨太の映画によりよく影響を受けているそうだが、、、これらの作品に通奏低音の様に流れるのは、孤独である。

是枝作品には、光がある。

人間は、孤独や絶望の先には光がある、希望がある、未来がある。と信じている。
空の上には神様が居ると信じている。そこに人生の不思議がある。

キルケゴールや、ドストフエスキーが提示する予定調和的なキリスト教的世界観には、
既にこうなること が決まっているのだから、今がんばっても仕方ない、といったペシミズムが支配する。
それは、自分が孤独でいようとそうでなかろうと、キリスト教徒一般が陥るペシミズム。

しかし、是枝監督の映画に見え隠れするのは、あての無い絶望から抜けてやろうと、まるで後先も考えない、その場しのぎの幼稚で、子供じみた感覚がある。

いつまでも大人になれない日本人の、大人への旅。
大人になるな、甘んじるな、知った気になるな、何も怖い事などはない、ただ無邪気に揺れ動いては、空を見上げるのだ。
こんな溝底に居るからこそ、空の星達はいつまでも輝いて見えるのだ。


# by fumiya0501 | 2012-02-16 23:39 | Journal

HAPPY 2012!!!

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# by fumiya0501 | 2012-01-03 02:11 | Journal

RAIN/DE KEERMAKER

木琴のはじき出した音が、唐突に静寂の世界へと引っ張る。
追いかぶさる様に、音の洪水が、一緒にガルニエを装う。

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ANNE TERESA DE KEERSMAKER/RAIN
音楽はSteve richの18人の音楽家の為の音楽、衣装はDries van noten.
今回から、オペラ座バレエ団の公式レパートリーに加えられた。

Wem wendersのPINAを見てから、なんとなくダンスというものが解って来た様な気がしていた。

身体を思いっきりに引っ張って、溢れん出んばかりの感情が肉を引き裂く様に、筋が広がり、歪み、それが一つの身となって、血となって迫ってくる。

決して、その身体から逃れる事の出来ない魂という物に、寄り添っている。

その存在に皆気ついてはいるものの、、、必死に魂の固まりを、、、そう、引きずり出そうと、自身の身体を遮二無二ぐにゃりぐにゃりと、、、折り曲げ、叩き、狂いそうな程に伸ばし。。。
それでも、身体の隅々にまで行き渡った魂という光は、決してその身体からあぶれ出る事なく、、、
しかし、僕たちは身体の延長線上に、目に見えない魂を見ている。。。

ある種のダンサーには、真っ黒な暗闇の中にある、どす黒い魂の閃光が見えていた。
限りなく、鋭敏に突き刺す様に輝く閃光と話をしていたのではないか。。。それが、彼女のダンスを引っ張っていた。そういうものがダンスというものなのかなと。。。

緊張感しか無い、研ぎすまされたライヒの音楽に、軽やかに鮮やかな色合いを放つDRIESの衣装が、強烈な印象を与える。。。

一緒になって踊る。
DE KEERSMAEKERは、このダンスをその様に語っている。

一緒になって踊るとはどういう事か、、、
隣に座った見知らぬ友人の手をとって、今僕たちは一緒になって踊る事が出来るのだろうか。
踊れるとすれば、いったいどの様に呼吸があわせられるのであろうか。

僕のリズムと友人にとってのリズムは、決して同じでは無いであろう。

心の中にある音楽を、自分が一つの楽器となって、皆が一緒に踊れるように。

70億人の地球人の為のダンス。
# by fumiya0501 | 2011-05-28 19:15 | Journal

La fin/Koniec

Joseph K., le matin de son trentième anniversaire, se retrouve à son réveil mis en accusation ; à l’issue d’une procédure incompréhensible, il est exécuté par deux comparses sans avoir jamais pu présenter sa défense ni même savoir de quoi il était accusé.
Tony, manutentionnaire dans un magasin et danseur «incroyablement doué», gravite silencieusement autour d’un crime possible et cherche son passeport pour s’arracher à son existence. « Il y a deux rues dans chaque rue », dit l’un des personnages de Nickel Stuff, « une rue secrète qui se cache sous l’autre, une rue de complots et de mort ». Elizabeth Costello se veut « secrétaire de l’invisible », prête à écrire sous la dictée de toutes sortes de voix, y compris celles des assassins, peut-être, si elle vient à les entendre, « depuis les flammes où ils brûlent ».
Mais tandis que Joseph K. (qui entend seulement raconter par un prêtre le fameux apologue de la porte de la Loi) ne parvient jamais à rencontrer ses juges, Elizabeth Costello, elle, a droit à plusieurs audiences, et se retrouve devant la porte qu’elle ne peut traverser, contrainte de subir l’épreuve kafkaïenne du plus implacable des examens de conscience précisément parce qu’elle n’aime pas Kafka…
K., Tony, Costello errent sans espoir dans un labyrinthe sans issue, celui d’un rêve où nous nous débattons tous.
# by fumiya0501 | 2011-02-16 02:52 | Journal

くるりの岸田さん

昨日は両親が旅行がてらライブを観にきた。正月も帰省できなかった馬鹿息子がダミ声で歌う「目玉のおやじ」なんかを聴いて、親父はなんて思ったのだろう。ステージから見えるだいぶ老けた親父を気にしながら歌って、ちょっと泣きそうになった。そう、今日は親父の誕生日。

母親はバレンタインのチョコをくれた。みんなにも配っていた。うちの母親は歳のわりに若くてかわいいんよ。母親に似ればよかったのに、俺。母親は、名古屋も十三もライブ観にきてくれた。くるりのコアファンですよ。

うちの両親は、なんだかふたりとも目が生きてるっちゅうか、まだたくさんの夢がありそうな気がした。

俺、夢なんか無いなぁ。

夢とか、持ったほうがええんやろけど。

金沢でいいライブができますように。


くるり岸田さんの日記


音楽が救ってくれる。

夢をいつまで追っかければいいのだろう。
あきらめないで、いつまで追いかければいいのだろう。。。

夢のない、岸田さんは、もうそれはそれで夢が、周りに充満しているよ。
夢のある人が、夢のないくるりの歌を聞いて夢を思う。

人それぞれが、そうして、自分の役目を生きているんだよね。
口にすれば、消えてしまう、夢という言葉も、きっとそんな風にそこに元々あるもんだろうね。

夢を追っている限り絶対に追いつけないし、夢を持てない人は、もうそれで目の前に、無防備に浮遊している夢をつかもうとも、気づこうともしないんだろうね。
# by fumiya0501 | 2011-02-11 07:06 | Journal

Freelance fashion editor based in Paris.

by fumiya0501